WILLIAMSピンボールの歴史


WILLIAMSの創設者は、いうまでもなく「ピンボールの父,ピンボールのエジソン」と呼ばれるHarry Williams氏である。しかし、David GottliebがGOTTLIEBの歴史と共に歩んだのと異なり、Harry Williams氏の業績はWILLIAMSの歴史とイコールではない。

Harry Williams氏の偉大な発明、電気式マシンの発明(「Contact」1933年,PACIFIC AMUSEMENT MFG)と、TILTの発明(「Signal」1934年,BALLY)は、いずれもWILLIAMSを創業する以前のものである。

この様な発明で、ピンボール・デザイナーとしての名声を固めたHarry Williams氏は、BALLY,EXHIBITなどのピンボールメーカーの仕事をした後、1942年についに自分の会社WILLIAMSを設立した。そして、1947年にSam Stern氏がWILLIAMSの共同経営者になり、彼に会社を売却する1959年までWILLIAMSを経営していた。

その後はピンボールデザイナーとしてWILLIAMSで「Toledo」(1976年)を、STERNで「Galaxy」(1980年)や「Flight 2000」(1980年)などのマシンのデザインを手がけたり、ピンボールコンサルタントととして活動をしていたが、1983年に亡くなった。

WILLIAMSピンボールを支えてきたのは、Steve Kordek氏,Steve Ritchie氏,Mark Ritchie氏,Pat Lawlor氏などのデザイナー陣である。Steve Kordek氏は、1960年にムービング・ターゲットを搭載した初のマシン「Magic Clock」を、1962年には初のドロップ・ターゲットを持つマシン「Vagabond」を製作した。 そして、「Space Mission」(1976年),「Flash」(1979年)などのヒット作も手がけている。

しかし、1970年代までのGOTTLIEBや1970年代から80年代にかけてのBALLY隆盛の時代、WILLIAMSは現在のようなトップメーカーとは言えなかった。大手ではあったが、2番手以下のメーカーであった。「Firepower」(1980年),「Black Knight」(1980年)などのヒットはあったものの、プレイヤーの評価もあまり芳ばしくなく、一時期BALLYに買収されるのでは、という噂があった程である。

この状況を打破したのが、1984年「Space Shuttle」だった。プレイフィールド内部にNASAのスペース・シャトルの模型を配置したこのマシンは、久しぶりのヒット作となった。そして、WILLIAMSの復活を決定したのが、1985年の「High-Speed」である。Steve Ritchie氏デザインのこのマシンは、ジャックポットやステータス・レポートを採用した初のマシンであり、さらに、故障しているスイッチを検出するための自動スイッチテストと、プレイヤーのレベルに応じて自動的にリプレイ点を調整する自動リプレイパーセンテージ等の新機能も採用した。Steve Ritchie氏はこの後も「F-14 Tomcat」(1987年)などのヒット作をデザインした。

一方、1980年代半ばになり業績不振に苦しんでいたBALLYは、1988年ついにピンボール部門をWILLIAMSの親会社であるWMSに売却することになった。BALLYはブランドしては残ったが、これ以降のBALLYマシンは徐々にWILLIAMSのマシンに似たスペックになり、デザイナーの垣根もなくなっていくことになる。

この時期、WILLIAMSは相変わらず好調で、ヒット作を連発していた。Mark Ritchie氏は、「Taxi」(1988年)を、のちに「Indiana Jones」(1993年)などを手がけた。Pat Lawlor氏は「Banzai Run」(1988年),「Earthshaker!」(1989年)などの傑作マシンを発表した。特に「Whirlwind」(1989年)は、ミニ・ゲームとそれを全て完成させたあとのビッグ・ゲーム、という概念を初めて取り入れたマシンで、その後のゲーム・コンセプトに多大な影響を与えた。

1990年代に入ると、ピンボールのフィーチャーはますます複雑になった。「Indiana Jones」(1993年),「Star Trek The Next Generation」(1993年),「The Flintstones」(1994年)などの版権もののピンボールが主流となり、点数はインフレ化する一方だった。そして、1994年以降ピンボールの市場は急激に冷え込んでいく。あまりに複雑なゲーム性や、家庭用ゲームの普及などによるプレイヤー離れが、その主な原因と考えられる。複雑で難易度の高いルールや1000億点の桁の出現といった、行き過ぎた部分に多くの人達がピンボールを楽しめなくなっていったのである。その様な中、WILLIAMSの「Tales Of The Alabian Nights」(1996年)は、点数をデフレしルールもシンプルなものにして、おおむね好感をもって受け入れられた。

1990年代後半になっても、ピンボール産業の不振は続いていた。1999年にWILLIAMS/BALLYは、PINBALL 2000というブラウン管をディスプレイとして組み込んだ新たな試みをピンボールに取り入れた。これは同社のピンボールの苦境を脱する最後のチャレンジだった。WILLAMSは大ヒット映画となった「Star Wars Episode I」の版権を獲得し、同名のピンボールをPINBALL 2000のWILLIAMSブランド第1弾として発表した。しかし、1999年10月にWILLIAMS/BALLYの親会社であるWMSはピンボールの生産からの撤退を公式に発表した。ここにWILLIAMSピンボールは50有余年の歴史を閉じることとなった。これによって、WILLAMS、BALLY、GOTTLIEBというピンボールを代表してきたブランドはすべて消滅することになった。

年度内容
1942年Harry Williamsによってシカゴで設立される。
1946年最初の自社デザインピンボールである「Suspense」を発表する。
1947年WILLIAMS最初のフリッパー・ピンボール「Sunny」を発表する。
1948年弾くバンパー(サンパー・バンパー)を備えた初めてのマシン「Saratoga」を発表する。
1960年ムービング・ターゲットを搭載した初のマシン「Magic Clock」を発表する。
1962年初のドロップ・ターゲットを持つマシン「Vagabond」を発表する。
1968年現在のピンボールで使用されている、ラージサイズのフリッパーを初めて採用した「HayburnersU」を発表する。
1969年アップ・ポストを備えた「Cabaret」を発表する。
1977年WILLIAMS最初のソリッド・ステート・フリッパー「Hot Tip」を発表する。
1979年世界初の話すピンボール「Gorgar」を発表する。
1980年レーン・チェンジを搭載した初のマシン「Firepower」を発表する。マグナ・セーブ、ミステリー・スコア、ラスト・チャンス等のフィーチャーを搭載。
1980年バイ・レベル構造を持った「Black Knight」を発表する。
1984年プレイフィールド内部にNASAのスペースシャトルの模型を配置し、音声のコマンドでプレイをガイドする、ミッション・コントロール・システムを搭載した「Space Shuttle」を発表する。
1985年「High-Speed」はジャックポットを採用した初のマシンである。プレイヤーにプレイの状況を知らせる、ステータス・レポートを搭載した。
1989年世界初の筐体自身が揺れるピンボール「Earthshaker!」を発表する。
1989年ミニ・ゲームと、それをすべて完成させたあとのビッグ・ゲーム、という概念を初めて取り入れた「Whirlwind」を発表する。
1991年ディスプレイ上で一種のビデオゲームを行うビデオ・モードと、拳銃タイプのプランジャー機構であるガン・プランジャーを初めて採用した「Terminator 2」を発表。
1999年PINBALL 2000シリーズとして、ブラウン管をディスプレイとして組み込んだ「Star Wars Episode I」を発表する。
1999年親会社のWMSは10月にピンボールの生産からの撤退を発表。11月にWILLIAMSブランドでのピンボールの生産は終焉する。


参考文献

文責:出井和幸


(C) 1997-1999 Tokyo Pinball Organization